雑学・コラム|世界の歴史
モアイとは?顔だけじゃない体と運び方、イースター島の本当の歴史
南米チリのイースター島に立つ、大きな顔の石像モアイ。「顔だけの石」「宇宙人が運んだ」「作りすぎて島がほろびた」——どれも一度は聞いたことがある話ですが、いまの研究では、3つとも事実とちがうことが分かってきました。モアイは島の人たちが彫った祖先の像で、土に埋まった体があり、ロープで「歩かせて」運んだと考えられています。2024〜2025年の最新の論文も紹介しながら、モアイの正体と島の歴史をやさしく解説します。
この記事の結論
- モアイは、イースター島(島の言葉でラパ・ヌイ)の人々が1250〜1500年ごろに彫った祖先の像です。島の言葉で「生きている顔(アリンガ・オラ)」とよばれ、村を見守ると信じられていました。
- 知られているのは900体以上。顔だけに見えるのは、石切り場の斜面の像が肩まで土に埋まっているからで、掘ると胴体があります。
- 運び方は、立てたままロープで左右にゆらして「歩かせた」説が有力です。2012年の実験では、4.35トンのレプリカを18人で100m・40分で動かしました。
- 「森を切りつくして文明が崩壊した」という物語は見直されています。2024年の衛星研究では、島が養えた人数は最大でも3,901人(従来の推計は約1万7千人)でした。
- 島の人口が激減した大きな原因は、1862年からの奴隷狩りと、持ちこまれた天然痘です。1877年には111人まで減りました。
(394体は石切り場に)
(高さ約4m)
100m歩かせた人数
(2024年の研究)
モアイとは?島の人が彫った「祖先の像」
モアイは、南米チリの領土であるイースター島に立つ、人の形をした石の像です。島は太平洋にぽつんと浮かぶ面積約164km²の火山島で、チリ本土からは約3,500kmも離れています。島の人々は自分たちの島をラパ・ヌイとよび、モアイのある一帯は1995年に「ラパ・ヌイ国立公園」として世界遺産に登録されました。

モアイは何のために作られた?
モアイは、亡くなったえらい祖先を表した像と考えられています。島の言葉では「アリンガ・オラ(生きている顔)」とよばれ、祖先が亡くなったあとも力を持ち、村の人々を見守ってくれると信じられていました。宇宙人や、なぞの古代文明が作ったものではありません。
海沿いのモアイの多くは、アフとよばれる石の祭壇の上に立ち、海に背を向けて、村のほうを向いています。見守る相手が村の人々だからです。ただし、内陸にある「アフ・アキビ」の7体は、海のほうを向いています。
いつ作られた?島の歴史の流れ
- 12世紀ごろポリネシアの人々が島に住みはじめるカヌーで太平洋をわたってきた人々が定住。年代は研究によって幅がありますが、12世紀ごろとする説が有力です。
- 1250〜1500年ごろモアイを彫る火山ラノ・ララクの石切り場で、石の道具を使って彫られました。
- 1722年ヨーロッパの船が来る復活祭(イースター)の日にオランダの船が到着。「イースター島」の名はここから来ています。
- 1868年まで祭壇の上の像がすべて倒れる理由は島の中の争いとも言われますが、くわしくはいまも議論があります。
- 1888年チリの領土にチリが島を併合しました。
- 1995年世界遺産に登録日本の協力で立て直されたアフ・トンガリキの15体も、この年に祭壇に戻りました。
モアイに体はある?顔だけに見える理由
「モアイは顔だけ」というイメージは、石切り場ラノ・ララクの斜面に立つ像から来ています。ここには394体ものモアイが残っていて、長い年月のあいだに山の上から土が流れこみ、多くが肩まで埋まってしまったのです。

実際に掘ってみると、顔の下にはちゃんと胴体が続いています。100年以上前の1914年ごろにも、イギリスの調査隊が像を掘り出して記録を残しました。土に守られていたおかげで、背中に彫られた模様がきれいに残っていた像もあります。

モアイには目と「帽子」もあった
祭壇の上のモアイには、もともと目が入っていました。1970年代の終わりに、白いサンゴでできた白目と、黒曜石や赤い石の瞳が発掘で見つかっています。目が入ることで、像は「生きている顔」になると考えられていました。
頭の上にのった赤い円柱はプカオとよばれ、別の石切り場プナ・パウの赤い火山の石(スコリア)で作られています。帽子とも、髪を結った姿ともいわれます。

モアイの大きさと重さ
| 高さ | 重さ | メモ | |
|---|---|---|---|
| 平均的なモアイ | 約4m | 約12.5トン | 底の幅は約1.6m |
| パロ | 約10m | 82トン | 立てられた中でいちばん高い |
| アフ・トンガリキの1体 | — | 86トン | 立てられた中でいちばん重い |
| 石切り場の彫りかけの像 | 約21m | 145〜165トン | 完成していれば最大(推定) |
平均的なモアイ(約12.5トン)は、乗用車にするとおよそ9台分(1台1.4トンで計算)。これを車輪もクレーンもない時代に、遠いものでは十数km先の海辺まで運んでいます。
モアイはどうやって運んだ?「歩かせた」説が有力
モアイの運び方は、長いあいだ大きななぞでした。かつては、寝かせてそりに乗せたり、丸太をころがしたりして引っぱったという説がよく紹介されていました。一方、島には昔から「モアイは自分で歩いて祭壇まで行った」という言い伝えがありました。
| やり方 | 手がかり | |
|---|---|---|
| 寝かせる説 | 寝かせてそりに乗せる、丸太をころがして引っぱる | 昔の本でよく紹介された |
| 歩かせる説 | 立てたままロープで左右にゆらして進める | 島の言い伝え「モアイは歩いた」・2012年の実験 |
立てたまま左右にゆらすと「歩く」
重い冷蔵庫や洗濯機をひとりで動かすとき、左右にかたむけながら少しずつ前に進めることがありますよね。モアイも同じで、立てたまま左右のロープを交互に引くと、底の角を軸にして1歩ずつ前に出ます。うしろのロープは、前に倒れないように引きとめるブレーキ役です。
2012年、アメリカの研究チーム(カール・リポ氏、テリー・ハント氏ら)がこれを実験しました。4.35トンのモアイのレプリカに3本のロープをかけ、18人で100mを40分で歩かせることに成功しています。
2025年の論文で分かった「歩く形」
同じチームは2025年11月、島の962体のモアイを3Dモデルなどで分析した論文を発表しました。主なポイントは次のとおりです。
| 分かったこと | 内容 |
|---|---|
| 道の像の形 | 運ぶ途中の道ばたで見つかる像は、底が幅の広いD字形で、前にかたむいている=歩かせやすい形 |
| モアイの道 | 幅は約4.5mで、まん中がくぼんだ断面。左右にゆれる像を受けとめやすい |
| 倒れた場所 | 道ばたの像の51.6%が石切り場から2km以内=出発してすぐの失敗と読める |
| 言い伝え | 島に伝わる「モアイは歩いた」という話とも合う |
反対の意見もある
「歩かせた」説は有力ですが、ほかの運び方を考える研究者もいます。論文には批判への回答もまとめられており、議論はいまも続いています。少なくとも、島の人々の工夫で運べたことは実験で示されています。
イースター島はなぜほろびた?「文明崩壊」説は見直されている
よく知られた物語に、「島の人がモアイを作るために森を切りつくし、食べ物がなくなって争いになり、人口が激減した」というものがあります。2005年に邦訳が出たベストセラー『文明崩壊』などで広まり、環境破壊の教訓として紹介されてきました。
森が消えたのは人だけのせいではない
島にヤシの林があり、それが消えたのは事実です。ただ、見つかったヤシの実の殻にはネズミがかじった跡がたくさんあります。人が船で島にわたったとき、いっしょについてきたネズミが、天敵のいない島で増え、実を食べてしまったと考えられています。
人口は1万7千人ではなく、3,000人前後だった可能性
2024年、研究チームは人工衛星の画像をAIで分析し、島じゅうの「石の畑」を数えなおしました。石の畑は、畑に石をしきつめて風と乾燥からさつまいもを守る、島の人々の工夫です。
| 人数 | 根拠 | |
|---|---|---|
| これまでの推計(最大) | 約17,000人 | 石の畑を広く見積もった計算 |
| 2024年の研究の上限 | 3,901人 | 衛星で測った石の畑0.76km²から |
| 畑+海の幸などの見立て | 約3,000人 | 畑だけなら約2,000人 |
| 18世紀の来訪者の記録 | 2,000〜3,000人 | 1722年以降の記録 |
石の畑の面積は島全体で0.76km²。これまでのいちばん控えめな見積もりの、さらに約5分の1でした。ここから計算すると、島が養えた人数は最大でも3,901人。海の幸などを含めると約3,000人で、これは18世紀に島を訪れたヨーロッパ人の記録とも合います。大勢の人が自滅したのではなく、3,000人ほどがやりくりしながら暮らしていたという見方です。
この研究への批判
衛星では見つけられなかった畑がある、石の畑以外の農業を考えていない、といった批判もあります。人口の推計は、今後も変わる可能性があります。
島の人口が激減した本当の理由
では、島の人々はなぜ大きく減ったのでしょうか。原因は、外からやってきました。
| 年 | できごと | 島の人口 |
|---|---|---|
| 1722年 | オランダの船が来る | 2,000〜3,000人 |
| 1862〜63年 | ペルーの奴隷船が島の人口の半分を連れ去る | 約1,500人が連行 |
| その後 | 戻れたのは十数人。天然痘が持ちこまれる | 急減 |
| 1877年 | いちばん少なくなる | 111人 |
1862〜63年、ペルーの奴隷船が島をおそい、島の人口の半分にあたる約1,500人を連れ去りました。帰ってこられたのは十数人だけで、その人たちが天然痘を持ちこんでしまいます。結核の流行や島外への移住も重なり、1877年には111人まで減りました。モアイを作った文化や言い伝えの多くも、このときに失われています。
モアイはなぜ倒れた?大英博物館のモアイも
1722年にヨーロッパの船が来たころ、モアイはまだ祭壇の上に立っていました。ところがその後、像は次々に倒され、1868年には祭壇の上に立っている像はなくなりました(石切り場の埋まった像をのぞく)。島の中の争いで倒したという言い伝えがありますが、くわしい理由はいまも議論が続いています。

1868年には、1体のモアイ「ホア・ハカナナイア」が島から持ち出され、いまはロンドンの大英博物館に展示されています。島からは返還を求める声が上がっています。現在、島で立っているモアイの多くは、20世紀になってから立て直されたものです。
日本とモアイの深い関係|倒れた15体を起こした日本のクレーン
じつは、いまのモアイの姿には日本が深くかかわっています。外務省(在チリ日本国大使館)がまとめた資料によると、経緯は次のとおりです。
- 1960年チリ地震の津波でアフ・トンガリキの15体が倒れる観測史上最大のマグニチュード9.5の地震による津波で、祭壇の上のモアイが内陸へ押し流されました。この津波は太平洋をわたり、日本の三陸海岸にも大きな被害を出しています。
- 1991年香川県のクレーン会社タダノが修復を開始島の市長が日本のテレビ番組で語った「クレーンがあれば倒れたモアイ像を起こせるのに」という一言がきっかけ。タダノは修復プロジェクトを立ち上げ、島にクレーンを寄贈しました。
- 1995年15体がふたたび祭壇の上にチリ政府や考古学者と協力し、伝説の15体が再び立ち上がりました。タダノはその後、2005年・2019年にもクレーンを贈っています。
- 2013年宮城県南三陸町に「島の石のモアイ」1960年の津波の縁で1991年に町に立ったモアイは、2011年の東日本大震災の津波で流されました。復興を願って、イースター島の石から彫った新しいモアイが贈られ、白サンゴと黒曜石の目が入っています。
宮崎県日南市のサンメッセ日南に立つ7体のモアイも、修復への協力にこたえる形で、島の長老会が日本での復刻を特別に許可したものです。
イースター島への行き方と、モアイ見学のルール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 国 | チリ(1888年から) |
| チリ本土からの距離 | 約3,500km(首都サンティアゴから定期便で6時間近く) |
| 人口 | 約7,750人(2017年国勢調査、うち約45%がラパ・ヌイの人々) |
| 世界遺産 | ラパ・ヌイ国立公園(1995年登録) |
イースター島へは、チリの首都サンティアゴから定期便で6時間近くかかります。日本からは乗り継ぎが必要で、移動にまる1日以上を見ておきましょう。
モアイを見に行くときのきまり
ラパ・ヌイ国立公園に入るには、ひとり1枚の入園券が必要です。遺跡の見学には公認ガイドの同行が必須で、石切り場ラノ・ララクと儀式村オロンゴは1枚の券で1回だけ入れます。もちろん、モアイや祭壇にさわったり、のぼったりしてはいけません。料金やきまりは変わることがあるので、出かける前に公式サイトで確認してください。
2022年10月には、ラノ・ララクで火事があり、およそ100体のモアイがある区域の約2割が傷んだと島の市長が説明しています。石は熱でひびが入ると元に戻らないため、保護の取り組みが続いています。
モアイについてよくある質問
Q. モアイは誰が作ったのですか?
A. イースター島(ラパ・ヌイ)に住んでいたポリネシアの人々です。1250〜1500年ごろ、火山ラノ・ララクの石を石の道具で彫って作りました。宇宙人や、なぞの古代文明が作ったものではありません。
Q. モアイは何のために作られたのですか?
A. 亡くなったえらい祖先を表した像と考えられています。島の言葉で「生きている顔」とよばれ、村を見守ると信じられていたため、多くは海に背を向けて村のほうを向いています。
Q. モアイに体はあるのですか?
A. あります。顔だけに見えるのは、石切り場の斜面の像が長い年月で肩まで土に埋まったためです。掘ると胴体が出てきて、背中に模様が残っていた像もあります。
Q. モアイはどうやって運んだのですか?
A. 立てたままロープで左右にゆらし、「歩かせて」運んだという説が有力です。2012年の実験では4.35トンのレプリカを18人で100m・40分で動かしました。ほかの方法を考える研究者もいます。
Q. モアイは全部で何体ありますか?
A. 900体以上が知られています。2025年の論文では962体が分析され、そのうち394体は石切り場ラノ・ララクに残っています。
Q. イースター島の文明はモアイの作りすぎでほろびたのですか?
A. いまはその見方は見直されています。2024年の研究では、島が養えた人数は最大でも3,901人で、人々はやりくりしながら暮らしていたと考えられます。人口が激減した大きな原因は、1862年からの奴隷狩りと天然痘でした。
Q. 日本にもモアイはありますか?
A. あります。宮城県南三陸町には2013年にイースター島の石から彫られたモアイが贈られ、宮崎県日南市のサンメッセ日南には島の長老会の許可を得て復刻された7体が立っています。
まとめ|モアイは「なぞの石」ではなく、いまも島を見守る祖先の顔
モアイは、島の人々が彫り、工夫して運び、村を見守る祖先として祭壇に立てた像でした。「顔だけ」に見えるのは埋まっているから、「宇宙人」ではなく島の人の技術、そして「自滅した文明」ではなく、外から来た奴隷狩りと病気が島を苦しめた——。なぞを作っていたのは、モアイそのものより、わたしたちの思いこみのほうだったのかもしれません。倒れたモアイを日本のクレーンが起こしたように、いまも島と日本の交流は続いています。
参考資料
- Carl P. Lipo, Terry L. Hunt「The walking moai hypothesis: Archaeological evidence, experimental validation, and response to critics」Journal of Archaeological Science 183(2025年11月)
- Dylan S. Davis ほか「Island-wide characterization of agricultural production challenges the demographic collapse hypothesis for Rapa Nui (Easter Island)」Science Advances(2024年6月)
- 外務省 グローカル外交ネット「モアイが結ぶイースター島と日本の絆 日本各地の物語」(2025年10月28日・在チリ日本国大使館)
- UNESCO World Heritage Centre「Rapa Nui National Park」
- Rapa Nui National Park(Ma’u Henua)公式サイト(入園券・ガイド同行のきまり)
- 数・大きさ・人口の推移はWikipedia英語版「Moai」「Easter Island」「Ahu Tongariki」の出典つき記述を参照
写真:Wikimedia Commons(各写真の下に撮影者・ライセンスを記載)。乗用車換算は筆者の計算です。


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