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元寇の沈没船から麻雀の祖先「天九牌」|鷹島海底遺跡で何が出た?
鎌倉時代の元寇(弘安の役、1281年)で沈んだとされる船が眠る長崎県松浦市の鷹島海底遺跡で、3隻目の沈没船からサイコロ5点と骨牌(こっぱい)29点が見つかりました。調査した國學院大學の池田榮史特別招聘教授は、骨牌を「マージャンの祖先ではないかといわれる」中国のゲーム「天九牌(てんきゅうはい)」の牌と同じものと説明しています。遺跡で遊び道具が出たのは初めてです。発表の中身と、これまでに見つかった元寇船3隻の比較、天九牌と麻雀の関係を、松浦市の報告書や古い文献で確かめました。
この記事の結論
- 松浦市と國學院大學の調査で、鷹島沖の3隻目の元寇船(3号船)の船尾付近から、骨牌29点とサイコロ5点が出土しました。鷹島海底遺跡で遊戯具が見つかったのは初めてです。
- 骨牌は中国のゲーム「天九牌」の牌に形が似ており、調理を担当していた人たちが休憩中に遊んだのではないかと研究者はみています。ただし「麻雀の祖先」かどうかは、麻雀の成り立ち自体に諸説があり、断定できる段階ではありません。
- 3号船は船尾を含む約15メートルが残り、推定全長は30メートル級。これまでの1号船(27メートル)・2号船(20メートル)を上回り、3隻の中で最大級とみられます。
- 明の時代の文献『五雑組』は骨牌を1組32枚・合計227点と記しています。今の天九牌の構成で計算すると同じ数になりました。今回の29枚は、その9割にあたる数です(1組かどうかは発表されていません)。

鷹島海底遺跡で何が見つかった?10月28日の発表まとめ
松浦市は10月2日から、國學院大學の池田榮史特別招聘教授と共同で、鷹島沖の3隻目の元寇船を調べてきました。28日に発表された内容を、各社の報道本文から整理します(市の発表資料は10月28日時点でインターネット上に見当たらないため、報道に基づいています)。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 発表した日 | 2026年10月28日(松浦市鷹島町の鷹島公民館での成果報告) |
| 調査した人 | 松浦市(教育委員会)と國學院大學の池田榮史特別招聘教授(水中考古学) |
| 調査期間 | 10月2日から29日間(テレビ長崎) |
| 場所 | 鷹島の沖合約150メートル、水深約18メートル(報道により17〜19メートル)の海底 |
| 対象 | 3隻目の元寇船(3号船)。2023年に船体の一部が見つかり、2024年に3隻目と確認 |
| 船体 | 船尾を含む船体後部が長さ約15メートル残っていた。隔壁や船底など中国の船の特徴的な構造を確認。推定全長は30メートル級 |
| 遊戯具 | 骨牌29点・サイコロ5点(計34点)。骨牌は縦約3センチ・横約1.5センチ(毎日新聞)。遺跡で初めての出土 |
| そのほかの出土品 | 食事の皿・お椀・すり鉢などの中国産陶磁器、包丁など。西日本新聞は遊戯具を含め約100点と報道 |
| 今後 | 4年続いた3号船の調査は一区切り。2027年度以降は別の範囲を調べる予定(NBC長崎放送) |
出典:NBC長崎放送(TBS NEWS DIG、10月28日)、RKB毎日放送(同)、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、NCC長崎文化放送、長崎国際テレビ、テレビ長崎、西日本新聞。水深はRKBが約17メートル、読売・NCCが約18メートル、テレビ長崎が19メートルほどと伝えています。
なぜ「調理場の近く」で遊び道具が見つかった?
遊戯具が出たのは船尾の部分です。同じ場所からは陶磁器のほか包丁やすり鉢も見つかっており、池田教授は「どうもこのスペースは『調理』に関する場所であろう」と話しています(NCC)。長崎国際テレビは、船尾付近に調理場や食材の保管庫があったと考えられると伝えました。
そのうえで池田教授は「調理にかかわるような人たちが料理が終わった後で、場合によっては一服しながらカードゲームをやっておられたんじゃなかろうか」と推測しています(NBC長崎放送)。長崎国際テレビは、骨牌について調理作業をしていた中国人が遊んだものではないかと推測されていると伝えています。
「戦争のためではない人々」の暮らし
池田教授は「戦争のためではなく、船を運航するための人々の暮らしぶりが今回明らかになった」と話し(長崎国際テレビ)、毎日新聞には「3隻目は大きさから生活空間を備えた母船の可能性もある」とも語っています。松浦市の文化財課長は「元寇という争いの中に来た人たちも(中略)人間らしい部分もあったということを証明するような遺物ではなかったか」と述べました(NCC)。これまで鷹島沖では武器や陶磁器が多く見つかってきましたが、船の上の日常を示す遺物が加わった形です。
天九牌とは?麻雀の祖先といわれる理由
天九牌は、サイコロ2個の目を1枚に並べたような牌を使う中国の伝統的なゲームの道具です。牌九(パイゴウ)牌とも呼ばれ、見た目は西洋のドミノに似ています。サイコロ2個の目の組み合わせは全部で21通りあり、天九牌はこの21種で1組をつくります。今回、骨牌と一緒にサイコロも5点見つかったのは、こうした遊び方との関係でも興味深い点です。

明の文献に残る「1組32枚・227点」を検算
明代の随筆『五雑組』(巻六)は、当時盛んだった遊びとして骨牌を挙げ、「共三十二扇,二百二十七點」(全部で32枚、目の合計227点)、天牌は24点、地牌は4点と記しています。現在の天九牌の構成(同じ牌が2枚ずつある11種と、1枚ずつの10種)で目を足し上げると、次のとおり文献とぴったり一致しました。
| 区分 | 枚数 | 内容 |
|---|---|---|
| 2枚ずつある牌(文牌) | 11種×2枚=22枚 | 天牌(6・6)、地牌(1・1)、人牌(4・4)など |
| 1枚ずつの牌(武牌) | 10種×1枚=10枚 | 残りの目の組み合わせ |
| 合計 | 21種・32枚 | 目の合計は227点(当サイトの計算) |
出典:謝肇淛『五雑組』巻六(維基文庫)、牌の構成はWikipedia「牌九」。目の合計は当サイトが21通りの組み合わせから計算。
今回見つかった骨牌は29枚で、1組32枚の約91%にあたります。ただし、出土した骨牌が1組のものか、どの牌か(目の内訳)は10月28日時点で報じられていません。数が近いことだけで「ほぼ1組そろっていた」とはいえない点に注意が必要です。
麻雀との関係は「諸説あり」
麻雀は、19世紀半ばの清で、紙のカードゲーム「馬弔(葉子)」と骨牌(牌九)を組み合わせて考え出されたという説が有力とされています。麻雀牌の一部の図柄が牌九の牌に似ていることも、つながりを示すものとして挙げられます。研究者が「マージャンの祖先ではないかといわれる」と表現しているのは、この流れを指しているとみられます。
一方、骨牌の始まりについては「北宋の宣和2年(1120年)に献上された」という言い伝えがありますが、『五雑組』自身が「相伝」(言い伝え)と書いているとおり、この説は明の末期(17世紀)になって初めて文献に現れるもので、伝説の域を出ないとされます。弘安の役(1281年)は宣和2年の161年後です。今回の出土品が天九牌と同じ系統の牌だと詳しい分析で確かめられれば、13世紀の船の上に骨牌があったことを示す実物の手がかりになる可能性があります。
見出しの「麻雀の起源」は断定ではありません
報道の見出しには「麻雀の起源」「マージャン牌起源の札」といった言葉が並びますが、研究者のコメントは「祖先ではないかといわれているゲームの牌と同じもの」「形が似ている」という表現です。出土した骨牌が麻雀の直接の祖先だと証明されたわけではありません。素材や目の配置などの分析はこれからです。
これまで見つかった元寇船3隻を比較【独自集計】
鷹島沖では、これまでに3隻の元寇船が確認されています。松浦市教育委員会の発掘調査報告書と今回の報道から、3隻の大きさや見つかった時期を並べました。
| 船 | 確認した年 | 位置(沖合・水深) | 残っていた部分 | 推定全長 |
|---|---|---|---|---|
| 1号船 | 2011年10月 | ― | 竜骨と外板が残る船底 | 約27m竜骨と外板が残る船底。現地で埋め戻して保存 |
| 2号船 | 2015年(一部は2014年度の試掘で検出) | 沖合約200m・水深約15m | 長さ約12m・最大幅約3m | 約20m隔壁9か所・8区画。現地で埋め戻して保存 |
| 3号船 | 2023年に一部発見・2024年に3隻目と確認 | 沖合約150m・水深約18m | 長さ約15m(船体中央〜船尾) | 30m級船尾まで確認。調理具・遊戯具が出土 |
出典:1・2号船は松浦市教育委員会『松浦市文化財調査報告書7 松浦市鷹島海底遺跡』(2016年)・同 第12集(2023年)、3号船は読売新聞・NCC長崎文化放送・毎日新聞などの報道(水深は報道により17〜19メートル)。倍率は当サイトの計算。
推定全長で比べると、3号船は1号船の約1.1倍、2号船の1.5倍です。2号船の報告書では、残っている船体(長さ約12メートル)に竜骨が収まると仮定し、「竜骨の2倍程度が全長」という考え方で全長約20メートルと推定しています。3号船も、残る船尾側の約15メートルと船首・船尾を立ち上げた形から「30メートルクラス」と想定されています(テレビ長崎)。
- 1号船:2011年10月、竜骨と外板が残る船底が見つかり、元の軍船の構造が分かる発見として注目されました。
- 2号船:2014年度の試掘で一部を見つけ、2015年6〜7月の調査で確認。隔壁9か所で8つの区画に仕切られていました。
- 3号船:2023年に一部が見つかり、2024年に3隻目と確認。2026年度の調査で船尾までたどり、調理具や遊戯具が出ました。
1・2号船は、すぐに引き揚げるのが難しいため、見つかった場所で埋め戻して保存されています(松浦市教育委員会)。nippon.comの池田教授への取材記事では、1・2号船は船底の形や隔壁から「江南軍の船」と確認されたとされ、大きさの違いは用途の違いとみられるとしています。
鷹島海底遺跡の調査はいつから?46年の年表
鷹島海底遺跡は、鷹島の南岸沖に広がる水中遺跡です。松浦市教育委員会の報告書によると、鷹島沖は弘安の役の際に元軍の船団が暴風雨で沈んだ場所として伝えられ、島の南岸では昔から地元の漁師が壺や刀剣、碇石などを引き揚げていました。本格的な調査が始まってから46年、1号船の確認からは15年になります。
- 1980年度〜鷹島沖で最初の発掘調査文部省の科学研究費による研究の一環として3年間。鎌倉時代の陶磁器などが出土しました。
- 1981年「鷹島海底遺跡」として周知元の公用文字・パスパ文字の「管軍総把印」が神崎港で採集されていたことも判明。
- 1994年度木製の椗(いかり)4門を発見海底に投錨した状態で見つかり、神崎港沖に船が停泊していたことが分かりました。
- 2011年10月1号船を確認池田教授(当時は琉球大学)らの調査で、竜骨と外板が残る船底を発見。
- 2012年3月27日国史跡「鷹島神崎遺跡」に神崎港沖の約38万4,000平方メートルが、水中遺跡として初めて国の史跡に指定されました。
- 2015年2号船を確認前年度の試掘で一部を検出していた船体を、6〜7月の調査で確認。
- 2023〜24年3号船を確認2023年に船体の一部が見つかり、2024年に3隻目の沈没船と判明しました。
- 2026年4月10日元寇船で初の文字資料2024年に出土した木板から、元の年号を示すとみられる漢字を確認したと市教委が発表(西日本新聞)。
- 2026年8月20日南宋の矢の末端を確認沈没船の船底の泥から、南宋の矢とみられる竹片が見つかったと報道(共同通信)。
- 2026年10月28日遊戯具が初めて出土3号船の船尾付近から骨牌29点・サイコロ5点。推定全長30メートル級と発表。
出典:松浦市教育委員会『松浦市文化財調査報告書第12集』(2023年)、同 報告書7(2016年)、西日本新聞(4月11日)、共同通信(秋田魁新報、8月20日)、NCC長崎文化放送ほか10月28日の報道。
元寇(文永の役・弘安の役)の規模は?鷹島沖で何が起きたか
元寇(蒙古襲来)は、モンゴル帝国(元)が1274年と1281年の2回、北部九州に攻めてきた出来事です。鷹島海底遺跡は、このうち2回目の弘安の役の古戦場跡にあたります。
| 項目 | 文永の役 | 弘安の役 |
|---|---|---|
| 年 | 1274年(文永11年) | 1281年(弘安4年) |
| 主な軍勢 | 元・高麗の軍 | 東路軍(高麗から出発)と江南軍(旧南宋から出発)の2方面 |
| 船の数(言われている数) | 弘安の役の約4,400隻は文永の役の「5倍近い」とされる逆算すると900隻前後(当サイトの計算) | 両軍で約4,400隻、うち江南軍が約3,500隻差し引くと東路軍は約900隻(当サイトの計算) |
| 鷹島との関係 | ― | 伊万里湾に集まった江南軍などが台風に遭い、多くが沈んだとされる。鷹島海底遺跡はその古戦場跡 |
出典:nippon.com「蒙古襲来750年(4)」(2024年4月25日)、読売新聞(10月28日)、松浦市教育委員会の報告書。船や兵の数は史料や研究者によって差があり、諸説あります。
nippon.comの記事によると、弘安の役では東路軍が5月3日に出発したのに対し、江南軍は1カ月半遅れの6月18日に出発するなど足並みがそろいませんでした。両軍が合流していれば博多湾は4,400隻の軍船で埋め尽くされたはずと言われますが、実際には伊万里湾で台風に遭ったとされています。池田教授は同じ記事で、湾内に密集した船が流されてぶつかり合い、被害が大きくなったのではないかとの見方を示しています。
一方で、池田教授は『高麗史』に「東路軍の8割方は生還した」とあることを挙げ、全軍が鷹島沖で壊滅したという定説にも検討の余地があるとしています。沈んだ船の多くは江南軍(旧南宋の人々が中心)の船とみられ、今回、骨牌で遊んだのも中国人の調理担当者ではないかと推測されているのは、こうした背景と重なります。
鷹島海底遺跡は今後どうなる?調査の次の段階
NBC長崎放送によると、4年間続いた3号船の調査は今回で一区切りとなり、2027年度以降は別の範囲を調べる予定です。テレビ長崎は、調査グループが沖合の別の場所に沈没船がないか調べる考えだと伝えています。
- 国際的な連携:今年度は松浦市と連携協定を結んだ韓国やモンゴルの研究者も参加しました。モンゴルの文化財機関の担当者が初めて海底の調査を見学しています。市と池田教授は、韓国・モンゴル・中国の調査機関と連携を続ける方針です。
- 出土品の分析:骨牌の素材や目の配置、サイコロとの関係などは今後の分析が待たれます。10月28日時点で、骨牌の詳しい内訳は公表されていません。
- 船体は引き揚げず保存が基本:これまでの1・2号船は現地で埋め戻して保存しています。3号船の保存方法については、今回の報道では触れられていません。
「海のタイムカプセル」と呼ばれる理由
池田教授は、陸上ではバクテリアや酸素で腐ってしまう遺物も、海底の泥に埋もれていれば当時のまま残るとして、鷹島沖を「海のタイムカプセル」と呼んでいます(nippon.com)。今回、木や骨などでできた小さな遊び道具が見つかったのも、こうした海底の環境があってこそといえます。
鷹島海底遺跡と天九牌のよくある質問
Q. 鷹島海底遺跡で何が見つかったのですか?
A. 2026年10月28日、松浦市と國學院大學の池田榮史特別招聘教授が、3隻目の元寇船の船尾付近から骨牌29点とサイコロ5点が出土したと発表しました。鷹島海底遺跡で遊戯具が見つかったのは初めてです。食器やすり鉢などの陶磁器、包丁も見つかりました。
Q. 天九牌とは何ですか?
A. サイコロ2個の目を1枚に並べたような牌を使う中国の伝統的なゲームの道具で、牌九牌とも呼ばれます。1組は21種32枚です。明代の文献『五雑組』にも、骨牌は32枚・目の合計227点と記されています。
Q. 天九牌は本当に麻雀の祖先ですか?
A. 麻雀は19世紀半ばの清で、紙のカードゲームと骨牌(牌九)を組み合わせて考え出されたという説が有力とされ、その意味で「祖先の一つ」といわれます。ただし麻雀の成り立ちには諸説があり、今回の出土品が麻雀の直接の祖先だと証明されたわけではありません。
Q. 3隻目の元寇船の大きさはどのくらいですか?
A. 船尾を含む船体後部が約15メートル残っており、推定全長は30メートル級です。松浦市の報告書で推定されている1号船(約27メートル)、2号船(約20メートル)を上回り、3隻の中で最大級とみられています。
Q. 鷹島海底遺跡はいつ国の史跡になりましたか?
A. 2012年3月27日に、神崎港沖の約38万4,000平方メートルが「鷹島神崎遺跡」として国の史跡に指定されました。水中遺跡が国の史跡になったのは初めてです。
Q. なぜ元寇の船が鷹島沖に沈んでいるのですか?
A. 1281年の弘安の役で、伊万里湾に集まった元軍の船団が暴風雨(台風)に遭い、多くが沈んだと伝えられているためです。見つかった船は、旧南宋から来た江南軍の船とみられています。
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出典・参考資料
- 松浦市教育委員会:『松浦市文化財調査報告書第12集』(2023年、奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧)、『松浦市文化財調査報告書7 松浦市鷹島海底遺跡』(2016年)
- 文献:謝肇淛『五雑組』巻六(維基文庫)、Wikipedia「牌九」
- 報道(10月28日):NBC長崎放送(TBS NEWS DIG)、RKB毎日放送(同)、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、NCC長崎文化放送、長崎国際テレビ、テレビ長崎、西日本新聞
- そのほか:西日本新聞(2026年4月11日)、共同通信(秋田魁新報、2026年8月20日)、nippon.com「蒙古襲来750年(4)」(2024年4月25日)
3隻の倍率、骨牌の目の合計、年数は各資料をもとに当サイトが計算したものです。10月28日の発表内容は報道によるもので、松浦市の正式な報告で数字や表現が変わる可能性があります。内容は2026年10月28日時点の情報です。写真:フジサキケンジ(CC BY 3.0)、Tungsainamho(CC BY-SA 3.0)をリサイズ。アイキャッチ:『蒙古襲来絵詞』(パブリックドメイン、Wikimedia Commons)をトリミングし文字を加えています。


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