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ちばてつやさん死去、87歳 死因は?『あしたのジョー』と連載年表
『あしたのジョー』『おれは鉄兵』『のたり松太郎』などで知られる漫画家のちばてつやさんが、2026年10月22日に都内の病院で亡くなりました。87歳でした。27日に公式サイトと日本漫画家協会が発表しました。文化庁の「メディア芸術データベース」で雑誌の掲載号を数え、代表作がいつからいつまで、何号にわたって載っていたのかを確かめました。
この記事の結論
- ちばてつや(本名・千葉徹弥)さんは2026年10月22日18時、都内の病院で亡くなりました。87歳。葬儀は家族葬で執り行われました(公式サイト)。サンケイスポーツなどは、死因を骨髄異形成症候群と伝えています。
- 『あしたのジョー』(原作・高森朝雄)は、メディア芸術データベースの記録で週刊少年マガジン1968年1号から1973年21号まで。この間に収録された274号のうち249号に掲載されていました。
- 週刊少年マガジンに連載した主要7作の掲載号を合計すると1,454号。1961年1号から1994年27号までにデータベースに収録された同誌1,686号の86.2%に、ちばさんの連載が載っていた計算です(当サイト集計)。
- 2024年に文化勲章を受章。内閣府の受章者一覧(2003年〜2025年)で、専攻分野が「漫画」の受章者はちばさん1人です。日本漫画家協会では2012年から理事長、2018年から会長を務めていました。

ちばてつやさんはいつ亡くなった?死因と葬儀
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 亡くなった日時 | 2026年10月22日18時 |
| 亡くなった場所 | 都内の病院 |
| 年齢 | 87歳(1939年1月11日、東京・築地の聖路加病院で生まれる) |
| 死因 | 骨髄異形成症候群(サンケイスポーツ、スポニチアネックスなどの報道。公式サイトの発表文には記載なし) |
| 発表 | 2026年10月27日、公式サイトと日本漫画家協会が発表 |
| 葬儀 | 家族葬で執り行った。弔問・供花・供物・弔電は辞退(公式サイト) |
| 喪主 | 妻 |
| お別れの会 | 小学館コミック局が「開催に向けて検討」(週刊女性PRIME) |
ちばてつや公式サイトの発表文、日本漫画家協会「訃報 会長 ちばてつや氏」、サンケイスポーツ、週刊女性PRIMEによる。
公式サイトは、喪主である妻の名前で「10月22日18時に都内の病院にて逝去いたしました」と発表しました。発表文では、87年の生涯を現役として画業70年にわたって読者に支持されたことを「漫画家として本当に幸せな人生でした」と記しています。日本漫画家協会も同じ27日に訃報を掲載し、葬儀は故人の遺志により近親者のみで執り行われたと伝えました。
死因について、公式サイトの発表文には記載がありません。サンケイスポーツは「22日午後、骨髄異形成症候群のため東京都の病院で死去した」と報じています。
骨髄異形成症候群(MDS)とは
スポニチアネックスは国立がん研究センターの説明として、骨の内部にある「骨髄」で血液細胞が正常につくられなくなる病気だと紹介しています。初期には自覚症状がほとんどなく、健康診断などの血液検査で異常が見つかることもあるとしています。
代表作はいつ連載された?メディア芸術データベースで数えた掲載号
文化庁の「メディア芸術データベース」には、国立国会図書館や大学・専門図書館が所蔵するマンガ雑誌の号ごとの目次が登録されています。このデータを公開されているSPARQLの窓口から取得し、作者が「ちばてつや」となっている作品を雑誌の号ごとに数え直しました。予告ページやポスターなど5ページ未満の掲載は数えていません。
| 作品 | 掲載誌 | 最初の掲載号 | 最後の掲載号 | 掲載が確認できた号 |
|---|---|---|---|---|
| 『ちかいの魔球』 福本和也(原作) |
週刊少年マガジン | 1961年1号 | 1962年50号 | 99号 |
| 『紫電改のタカ』 | 週刊少年マガジン | 1963年27号 | 1965年3号 | 79号 |
| 『ハリスの旋風』 | 週刊少年マガジン | 1965年16号 | 1967年47号 | 122号 |
| 『あしたのジョー』 高森朝雄(原作) |
週刊少年マガジン | 1968年1号 | 1973年21号 | 249号 |
| 『おれは鉄兵』 | 週刊少年マガジン | 1973年33号 | 1980年20号 | 316号 |
| 『のたり松太郎』 | ビッグコミック | 1973年15号 | 1999年9号 | 367号 |
| 『あした天気になあれ』 | 週刊少年マガジン | 1980年42号 | 1991年25号 | 496号 |
| 『少年よラケットを抱け』 | 週刊少年マガジン | 1992年23号 | 1994年27号 | 93号 |
文化庁「メディア芸術データベース」(2026年10月27日取得)から当サイトで集計。号数は雑誌の表記どおり。データベースに収録されていない号は数えられないため、実際の掲載回数とは一致しない場合があります。『のたり松太郎』は月2回刊の「ビッグコミック」での掲載。
週刊少年マガジンに33年半で1,454号
表の8作のうち、『のたり松太郎』を除く7作は講談社の週刊少年マガジンでの連載です。7作の掲載号は1号も重なっておらず、合計すると1,454号になりました。最初の『ちかいの魔球』1961年1号から最後の『少年よラケットを抱け』1994年27号までの間に、データベースに収録されている週刊少年マガジンは1,686号。およそ7号に6号(86.2%)の割合で、ちばさんの連載が載っていたことになります。
特に『あしたのジョー』(1973年21号まで)→『おれは鉄兵』(1973年33号から)→『あした天気になあれ』(1980年42号から)は、ほとんど間を空けずに続いています。『おれは鉄兵』の316号、『あした天気になあれ』の496号は、いずれも『あしたのジョー』の249号を上回ります。
『あしたのジョー』は何年連載?データで見る5年4か月
データベースの記録では、週刊少年マガジンの1967年52号に「次週新連載開始予告」が載り、1968年1号から連載が始まりました。とちぎテレビや日刊スポーツは「1967年12月発売の週刊少年マガジン」で連載が始まったと伝えており、表紙の日付(1968年1月1日)より前に店頭に並んだ号とみられます。
本編の最後は1973年21号でした。続く22号から25号には「あしたのジョー6番勝負」と題した過去の試合の再掲載企画が4回載り、22号には「サヨナラ!!あしたのジョー」という記事もあります。1968年1号から1973年21号までにデータベースに収録された274号のうち、本編が載っていたのは249号でした(90.9%)。
1970年45号〜1971年7号は掲載が見当たらない
本編が載っていない25号のうち14号は、1970年45号から1971年7号まで連続しています。この間も週刊少年マガジン自体は目次付きで収録されているため、連載が数か月止まっていた時期とみられます。ただし、休載の理由はこのデータからは分かりません。
原作の高森朝雄は、劇画原作者・梶原一騎の別名です。日刊スポーツは27日、「あしたのジョー」原作の故梶原一騎さんの事務所が追悼のコメントを出したと伝えています。作品のデータはメディア芸術データベースの『あしたのジョー』のページでも確認できます。
『のたり松太郎』は不定期で26年
大相撲を舞台にした『のたり松太郎』は、ビッグコミックの1973年15号から1999年9号(「その360 故郷の空に」)まで、データベース上で367号に掲載がありました。同じ期間のビッグコミック619号の半分余りで、1992年12号から1995年19号までは掲載がありません。長い間隔を空けながら描き継がれた作品だったことが、数字からも分かります。
文化勲章までの受賞・叙勲の歩み
| 年 | 受賞・叙勲 | 確認した資料 |
|---|---|---|
| 1962年 | 第3回講談社児童まんが賞(『1・2・3と4・5・ロク』『魚屋チャンピオン』) | 公式サイト |
| 1976年 | 第7回講談社出版文化賞 児童まんが部門(『おれは鉄兵』) | 公式サイト |
| 1977年 | 第23回小学館漫画賞 青年一般部門(『のたり松太郎』) | 公式サイト |
| 1977年 | 第6回日本漫画家協会賞 特別賞(『のたり松太郎』) | 公式サイト・日本漫画家協会 |
| 2001年 | 日本漫画家協会賞 文部科学大臣賞 | 公式サイト・日本漫画家協会 |
| 2002年 | 紫綬褒章 | 公式サイト・日本漫画家協会 |
| 2009年 | 第33回講談社漫画賞 講談社創業100周年記念特別賞 | 公式サイト |
| 2012年 | 旭日小綬章 | 公式サイト・日本漫画家協会 |
| 2014年 | 文化功労者 | 公式サイト・日本漫画家協会 |
| 2017年 | 練馬区名誉区民 | 公式サイト |
| 2022年 | 日本芸術院会員 | 公式サイト・日本漫画家協会 |
| 2024年 | 第72回菊池寛賞 | 日本文学振興会 |
| 2024年 | 文化勲章 | 内閣府 |
ちばてつや公式サイトのプロフィール、日本漫画家協会「協会歴代理事長」、日本文学振興会「菊池寛賞 受賞者一覧」、内閣府「令和6年度 文化勲章受章者」による。
文化勲章の受章者一覧で「漫画」は1人だけ
内閣府の「令和6年度 文化勲章受章者」には7人が載っており、ちばさんは「文化功労者 日本芸術院会員 マンガ家」、専攻分野は「漫画」と記されています。内閣府の「文化勲章受章者一覧(平成15年秋〜令和7年秋)」で2003年から2025年までの23回分の専攻分野を確かめると、「漫画」はちばさんの1人だけでした。TBSは、漫画家として初めての文化勲章だったと伝えています。
菊池寛賞の受賞者一覧には、受賞理由として『あしたのジョー』をはじめ70年近く読者を熱狂させ続けたことに加え、後進の発掘や作者の権利を守る活動など、長年にわたる日本漫画の振興が挙げられています。
日本漫画家協会の理事長・会長として
ちばさんは公益社団法人日本漫画家協会で2012年7月から2018年6月まで理事長(協会のページに載る歴代7人のうち6人目)を務め、2018年からは会長でした。協会の「協会歴代理事長」のページに載る7人は次のとおりです。
| 順 | 理事長 | 在任 |
|---|---|---|
| 1人目 | 近藤日出造 | 1964年12月〜1976年5月 |
| 2人目 | 杉浦幸雄 | 1976年5月〜1981年6月 |
| 3人目 | 加藤芳郎 | 1981年6月〜1992年6月 |
| 4人目 | 小島功 | 1992年6月〜2000年6月 |
| 5人目 | やなせたかし | 2000年6月〜2012年7月 |
| 6人目 | ちばてつや | 2012年7月〜2018年6月 |
| 7人目 | 里中満智子 | 2018年6月〜 |
日本漫画家協会「協会歴代理事長」の掲載順に当サイトで番号を付けたもの。
協会は27日の訃報で、ちばさんが理事長・会長を歴任し、漫画の普及や創作活動の振興、漫画と漫画家の地位向上など、漫画界全体に大きく貢献したと記しています。
満州からの引き揚げと「戦争はいけない」という思い
公式サイトのプロフィールによると、ちばさんは1939年に東京で生まれ、同じ年の11月に朝鮮半島を経て、1941年1月に旧満州・奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)へ渡りました。1945年に終戦を迎え、翌年に中国から引き揚げています。
TBSによると、ちばさんは終戦前後の満州で略奪や飢えに苦しみながら逃避行を経験し、生前、空腹でやつれていく人の表情を自分で見て覚えていたと語っていました。漫画を通して平和への思いを伝え続け、インタビューでは「どんなに苦しい状況に追い込まれても、我々は戦争しないんだっていう凛とした姿勢を」と話していました。
特攻隊を題材にした『紫電改のタカ』(1963〜1965年)について、マグミクスは2022年のインタビューを紹介しています。人気が落ちた時期に担当編集者から華やかで面白いものを描くよう求められ、「戦争は面白いものじゃないのに、面白く描けと言われて腹が立ちました」と振り返っていたといいます。
晩年は、半生を描く漫画『ひねもすのたり日記』をビッグコミックに連載していました(朝日新聞)。TBSは、今年の夏まで連載を続けていたと伝えています。
ちばてつや賞と文星芸術大学:後進の育成
講談社のコミック編集部は27日のコメントで、新人賞「ちばてつや賞」が創設から46年になると記し、多くの新人漫画家がこの賞からプロの道に進んだと振り返りました(朝日新聞)。
宇都宮市の文星芸術大学では、2005年4月に漫画専攻の教授となり、2019年4月から2022年3月まで学長を務めました(スポーツ報知)。とちぎテレビによると、2011年からはパソコンで描く漫画のコンテスト「デジタル漫画甲子園」も開いていました。
「画業70年」の数え方
公式サイトによると、プロデビューは1956年の単行本作品で、2026年まで数えると70年になります。雑誌連載の始まりは1958年の「ママのバイオリン」、週刊少年誌へのデビューは1961年の『ちかいの魔球』でした。
ちばてつやさんの歩み【年表】
- 1939年1月11日東京・築地で誕生同年11月に朝鮮半島を経て、1941年1月に旧満州・奉天へ(公式サイト)。
- 1946年中国から引き揚げ1945年の終戦の翌年(公式サイト)。
- 1956年単行本作品でプロデビュー1958年に「ママのバイオリン」で雑誌連載を始める。
- 1961年1号『ちかいの魔球』で週刊少年誌デビュー週刊少年マガジン。原作は福本和也(データベース)。
- 1968年1号『あしたのジョー』連載開始原作・高森朝雄。1973年21号まで(データベース)。
- 1973年『おれは鉄兵』『のたり松太郎』開始鉄兵は週刊少年マガジン33号から、松太郎はビッグコミック15号から。
- 1980年42号『あした天気になあれ』連載開始1991年25号まで、496号に掲載(データベース)。
- 2005年4月文星芸術大学の教授に2019年4月〜2022年3月は学長(スポーツ報知)。
- 2012年7月日本漫画家協会の理事長に2018年6月から会長(日本漫画家協会)。
- 2014年文化功労者2022年に日本芸術院会員(公式サイト)。
- 2024年文化勲章を受章同年、第72回菊池寛賞も受賞。
- 2026年10月22日死去(87歳)都内の病院で。27日に公式サイトが発表。
ちばてつや公式サイト、日本漫画家協会、内閣府、日本文学振興会、文化庁「メディア芸術データベース」、スポーツ報知の報道による。
ちばてつやさんの死去についてよくある質問
Q. ちばてつやさんはいつ亡くなった?
A. 2026年10月22日18時に、都内の病院で亡くなりました。87歳でした。27日に公式サイトと日本漫画家協会が発表しました。
Q. ちばてつやさんの死因は?
A. 公式サイトの発表文には書かれていません。サンケイスポーツやスポニチアネックスは、骨髄異形成症候群のためと報じています。
Q. 『あしたのジョー』の連載期間は?
A. 文化庁のメディア芸術データベースの記録では、週刊少年マガジン1968年1号から1973年21号までです。この間に収録された274号のうち249号に掲載されていました。原作は高森朝雄(梶原一騎)です。
Q. ちばてつやさんの代表作は?
A. 『あしたのジョー』のほか、『ちかいの魔球』『紫電改のタカ』『ハリスの旋風』『おれは鉄兵』『のたり松太郎』『あした天気になあれ』などがあります。晩年は『ひねもすのたり日記』を連載していました。
Q. ちばてつやさんは文化勲章を受章していた?
A. 2024年に文化勲章を受章しました。内閣府の受章者一覧(2003〜2025年)で専攻分野が「漫画」なのは、ちばさん1人です。2014年には文化功労者に選ばれています。
Q. 葬儀やお別れの会は?
A. 葬儀は家族葬で執り行われました。弔問や供花などは辞退するとしています。お別れの会は、小学館コミック局が開催に向けて検討していると報じられています。
あわせて読みたい
出典・参考資料
- ちばてつやホームページ(プロフィール・2026年10月27日の発表文)
- 日本漫画家協会「訃報 会長 ちばてつや氏」「協会歴代理事長」
- 内閣府「令和6年度 文化勲章受章者」「文化勲章受章者一覧(平成15年秋〜令和7年秋)」
- 日本文学振興会「菊池寛賞 受賞者一覧」
- 文化庁「メディア芸術データベース」(SPARQLで取得し当サイトで集計、2026年10月27日)
- モデルプレス「「あしたのジョー」漫画家・ちばてつやさん死去 享年87 公式サイトで発表」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- サンケイスポーツ「山下智久、ちばてつやさん追悼」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- スポニチアネックス「ちばてつやさん死因「骨髄異形成症候群」とは」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- 朝日新聞「ちばてつやさんの功績たたえ 小学館・講談社が追悼コメント発表」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- TBS NEWS DIG「「あしたのジョー」ちばてつやさん死去 87歳 満州引き揚げ・飢えの体験が名作に」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- スポーツ報知「ちばてつやさんが学長を務めた文星芸大が追悼コメント」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- マグミクス「「戦争は面白いものじゃないのに…」漫画家・ちばてつやさん「大人気連載」の裏で抱えた「深い葛藤」語っていた」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- 週刊女性PRIME「【訃報】漫画家・ちばてつやさん“生涯現役”のマンガ人生」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- とちぎテレビ「「あしたのジョー」ちばてつやさん死去 87歳 栃木県内で後進育成に尽力」(2026年10月27日、Yahoo!ニュース配信)
- 写真:Wikimedia Commonsのフリーライセンス画像(内閣官房内閣広報室、CC BY 4.0。トリミング・リサイズ)


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